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有機体

哲学徒二年生

プラトン『エウテュプロン』一読

最初の投稿から間ができてしまった。あまり妥協したものも書きたくないので、更新は文章がまとまったときに限らせていただきたい。

さて、ポケモンGOの配信が開始されたときに、流行りに乗じて「プラトンGO」を始めようと決めた。すなわち、プラトン全集を1巻から読み進めようという試みである。

しかし若干のポケモンGOユーザーが3日で飽きたように、私の試みも長続きしなかった。夏休み期間中は、全集の置いてある研究室がなかなか利用する間がなかったのもあるし、最初に読み始めたのがプラトン著作の中でも分量が最長である『国家』だったのもある。

しかし、秋学期が始まり、空きコマの時間を研究室で過ごせるようになった。週1巻ずつ読めば、秋学期中に全巻読み終わらせることができる。この機を逃すわけにはいかない。プラトンGOで、新たな冒険を始めよう。

というわけで、最初に取り扱うのは、プラトン全集第1巻収録の『エウテュプロン』である。副題は「敬虔(ホシオテース)について」。

プラトン著作は、彼の師であったソクラテスを主人公とする対話篇で構成されている。簡単に言えば、ソクラテスが彼の論敵を倒していく哲学物語である。タイトルは、ソクラテスの対話相手であることが多い。『ソクラテスの弁明』『国家』『法律』は例外である。したがって、今回の対話相手はエウテュプロン。

また、プラトン著作は3種類に大別される。1つ目は、相手の主張を論駁し議論を行き詰まり(アポリア)に陥らせるという、ソクラテスの実際の性格に忠実に書かれている初期対話篇。2つ目は、著者プラトンイデア論に代表される自身の考えをソクラテスの口を通して語る中期対話篇。3つ目は、プラトン自身による自己批判期である後期対話篇。「エウテュプロン」はこの内の初期対話篇である。

内容に入ろう。エウテュプロンと出会ったソクラテスは、エウテュプロンが自身の父親殺人罪で告訴したことを知る。殺された男は、エウテュプロンの日雇い人であり、エウテュプロンの奴隷の一人に腹を立てて殺してしまった。そこで彼の父は、取るべき処置を聖職者に尋ねるまでの間その男の手足を縛って放置していた。その間に彼は死んでしまった。

しかしソクラテスは、父親を訴訟に起こすことは逆に不敬虔な行為なのではないか、とも恐れないエウテュプロンの言動に対して、彼は敬虔とは何であるか、また不敬虔とは何であるかを心得ているのではないかと考え、「敬虔はあらゆる行為においてそれ自身と同一であり、他方不敬虔は、いっさいの敬虔と反対であるけれども、それ自身とは同じ性格であり、いやしくも不敬虔であるかぎりのものはすべて、その不敬虔という点において、ある単一の相を持っている」(A)ことを彼に同意させてから対話を始める。

エウテュプロンはまず敬虔をこう定義する。

「敬虔とは、私が現在行っているまさにそのこと、すなわち、問題が殺人であれ、聖物窃取であれ、また別の何かそういった類のことであれ、罪を犯し、不正を働く者を、それがたまたま父親であろうと母親であろうと、あるいは他の誰であろうとも、訴え出ることであり、これを訴え出ないことが不敬虔である。」

ソクラテスは次のように返す。君の今言ったことは敬虔と呼ばれるものの内のひとつに過ぎない、すべての敬虔なことをそのまま言い換えられるその相そのもの(このことを〈本質〉(ラテン語でessentia)と言う)を教えて欲しい、と。エウテュプロンは次のように定めた。

「神々に愛でられるものが敬虔であり、愛でられないものが不敬虔である。」

ソクラテスはまた次のように返す。神々の間でもどれが敬虔でありまたどれが不敬虔であるか、考えは分かれるだろう、そうなると同一のものが敬虔かつ不敬虔になる、それは最初に君が同一したところ(A)に矛盾する、と。再度定義がし直される。

「すべての神々が愛するもの、それが敬虔なものであり、その反対のもの、すなわち、すべての神々の憎むものが不敬虔なものである。」

しかしソクラテスは次のように問う。すなわち、敬虔なものであるから神々に愛されるのか、それとも神々に愛されるがゆえに敬虔なものであるのか。

彼はこう言う。〈運ばれるもの〉は運ばれるから〈運ばれるもの〉なのであり、〈運ばれるもの〉が〈運ばれるもの〉であるがゆえに運ばれるのではない。〈見られるもの〉は見られるから〈見られるもの〉なのであり、〈見られるもの〉が〈見られるもの〉であるがらゆえに見られるのではない。事物は、それが〈作用(性質)を受け取るもの〉であるから作用(性質)を受け取るのではなく、作用(性質)を受け取るから〈作用(性質)を受け取るもの〉である。愛される性質があるから愛されるのではなく、愛されるからこそそれは愛される性質があると言える。したがって、神々に愛されるからこそ〈愛されるもの〉である。

だから、神々が愛するのは〈敬虔なもの〉だけではない。〈愛されるもの〉は複数個ある。整数は偶数の部分集合であるが、偶然は整数の部分集合ではないように、〈敬虔なもの〉は、〈愛されるもの〉の部分集合ではあるが、その逆は成り立たない。

ところで、〈敬虔なもの〉は〈正しいもの〉の一部分であるのだから、〈敬虔なもの〉が〈正しいもの〉の内でどのような部分であるのかを考えればよい、とソクラテスは導く。エウテュプロンは、次に、こう定義し直す。

「〈正しいもの〉の内、〈敬虔なもの〉は神々の世話に関わる部分であり、他の部分は人間に関するものである。」

「世話」の語が吟味され、神々の世話とは、奴隷が主人にするような世話、すなわち奉仕であるとされる。

「〈正しいもの〉の内、〈敬虔なもの〉は神々への奉仕である。」

さて、どのようなものが神々への奉仕に当てはまるのだろうか。ここでは、神々への請願と贈り物であるとされる。ところが、そうなると神々に嘉納されるものは〈神々に愛されるもの〉になってしまう。〈敬虔なもの〉は〈愛されるもの〉の部分であるから、再度〈敬虔なもの〉とは何かと問わなければならない。

ここで、ソクラテスが敬虔について再度問うと、エウテュプロンは急用と吐かしその場を去ってしまう。以上で『エウテュプロン』は終幕となる。

aという語の定義が予め与えられていない状況で探るとき、aはいかなる集合に含まれるか、その集合の内で他の部分とどのような差異が見出されるか、が重要となるようである。初期対話篇の中には今回のような定義をめぐるアポリアに陥るものは幾つか見られる。他の対話篇を検討しつつ、この定義をめぐる難問を解いていこう。

次回は『ソクラテスの弁明』。

2016.09.09

はてなブログを始めた。noteもいいですがそろそろ拠点を、と本名もハンドルネームも知らない誰かにアドバイスされたから。私の行動の動機なんてそんなものだ。 

 

投稿する内容は少しだけ変えようと思う。これまでは過去や現在の内面記述やそこから得た哲学的(と思われる)視座を散りばめたような文章が中心であった。高校卒業後、私にはまず自らの些細な悩みと哲学的思考とを峻別する必要があったのだ。

 

これからは、徐々に学問としての哲学の森の奥に入っていくことになる。あくまでも為すは学問である。偉大な哲学者の通った道を追跡し、踏み締める。その繰り返しである。ここでは、長文を書く練習をしながら、テクストの「追思考」を行う。もちろん哲学以外の内容も記すつもりではあるが、内容は偏るだろう。

 

最後に。私の関心は「人間とは何か」すなわち「〈われわれ〉とは何者であるか」、「〈われわれ〉は何を為すべきか」そして「罪と罰とは」である。これが長く続いている根本的な関心らしい。ここから考えないことには精神史を追うのも億劫であり、ここへ問いが帰着しないと気分が悪い。これからこれらのテーマを深めていくことにしよう。