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有機体

哲学徒二年生

プラトン『パイドン』一読

プラトン

《われわれはどこから来て、どこへ行くのか》この種の言説は、哲学の入門書の冒頭によく用いられる。それは哲学的に原初的な問いでありながら、しかし自己に対して切実な問いである。

 

ソクラテス以前の哲学者たちは、専ら《自然(フュシス)とは何か》について考えていた。ソクラテスにおいて、初めて《善く生きること》が問題となったのである。

 

《生きる》とは何なのだろうか。他の動物と比べても限りなく無力かつ無力な状態でこの世に産み落とされ、既にこの世に生きている人々の輪の中に入り、明日のことや数年後数十年後のことに気を払いながら、寿命や事故といった不条理な理由で死んでいく。生きるとは死に行くことなのか?

 

死とは何か。死は生きとし生ける有限な存在者に必ず訪れる。今私は生きている。しかし死んだらどうなる?天国に行くか地獄に行くか、この迷いの世界において生まれ変わるか、それとも、全くの無か…。死んでみないとわからないか、しかし死んだらもうこの人生に戻ることはできないのではないか。死んだら他人にとっての私は、遺体、遺影、あるいは記憶の中だけの存在になり、そしていつしか空気のそよぎの一部にしかならなくなるのだろう…。

 

さて、今回扱うのは『パイドン』。プラトンの中期対話篇であるので、彼自身の考えが主人公のソクラテスの口から語られることになる。副題は、「魂の不死について」。

 

ソクラテスが「国家公認の神々を拝まず、青年を腐敗させた」という罪で告発され、刑死する直前の牢獄にて、彼の弟子たちがソクラテスと最期の対話をする。その対話の内容を後日パイドンがエケクラテスに伝える。大まかな内容としては、⑴ソクラテス自身の死への態度の表明と、⑵霊魂の不滅の証明である。

 

 

ソクラテス自身の死への態度の表明

 

今日「哲学者」と聞くと、「哲学的なことを考える人」「哲学という学問を研究する人」という印象を持つかもしれない。しかし、古代ギリシア、もとい原義においては「知恵を愛する人」であった。ちなみに、日本語の「哲学」は、明治期に西周が英語のphilosophyを訳したものであり、さらにphilosophyはラテン語のphilosophia、philosophiaはギリシア語のピロソピアが元である。

 

ここでのソクラテス(=プラトン)は禁欲主義的な態度をとる。視覚や聴覚など肉体的な感覚では真理を掴むことはできない。むしろそれら諸感覚は魂を惑わすのであるから、真理の探求には不要である。 本当の哲学者ならば、肉体を蔑視し快楽を抑え、金銭や名誉に囚われず、死んだように生きるだろう。哲学者たちの仕事は、知恵を愛し求めることだからである。

 

「本当に哲学に携わっている人たちは、ただひたすらに死ぬこと、そして死んだ状態にあること、以外のなにごとも実践しない…」

 

また、彼は、死を「魂が肉体から分離すること」と定義する正義や善美が本来何であるかは、肉体の目で見ることはできない。魂の目でのみ見ることができる。つまり、肉体から分離独立した魂こそが真理を獲得するのである。

 

だからといって、彼は今すぐに自殺すべしとは主張しない。なぜなら、人間は神々の所有物であり、自殺は神々が決して許さないであろうから。

 

しかしケベスはこう反論する。魂は肉体から独立して存在するのだろうか。魂は、肉体から離れると飛散消滅してしまうのではないか、と。ここから、ソクラテスによる霊魂不滅の証明が始まる。

 

 

⑵霊魂の不滅の証明

 

ソクラテスは、次の四つの方法で、霊魂の不滅を証明した。

 

a.生成の循環構造による証明

 

冷たいものは熱いものから、熱いものは冷たいものからしか生じない。眠っているものは目覚めているものから、目覚めているものから眠っているものからしか生じない。ゆえに、あるものはその正反対のものからしか生じない。ゆえに、生きているものは死んでいるものから、死んでいるものは生きているものから生じる、すなわち死者たちの魂は存在する。

 

b.想起説による証明

 

想起説は『メノン』について書く時に詳しく言及しようと思うので、ここでは簡潔に解説をしておく。

 

あるものとあるものが等しいとわれわれが言う時、〈等しい諸事物〉についてだけ言及しているのであって、〈等さそのもの〉について言及しているわけではない。 あるものが美しいと言う時、〈美しい事物〉についてのみ言及しているのであって、〈美しさそのもの〉について言及しているのではない。むしろ〈まさにそのもの〉については肉体的な生においては経験することができないのである。

 

しかしながら、われわれは「これとこれは等しい」「これは美しい」と言うことができる。ならば、この肉体に魂が棲みつく前に、〈まさにそのもの〉(すなわちイデア)について見、知っていたのでなければならない。「等しい」「美しい」と言う時、その都度〈等しさそのもの〉〈美しさそのもの〉を想い出している。したがって、われわれがこの肉体に棲みつく前からも魂は存在したのでなければならない。

 

(a,bの証明は不十分のように思われる。なぜなら、過去魂がa,bのような遍歴を辿っていたとしても、未来においてもそうであるとは必ずしも言えないからである。「同じ川に二度入ることはできない」「太陽は日々に新しい」と述べたヘラクレイトスの真意を理解しなければならない。)

 

c.魂とイデアの親類性による証明

 

ある合成物は、単一なものの複合体である。例えば机は木材と接着剤やネジから成る。ネジは鉄やステンレスなどから成る。ネジ一本に含まれる鉄は電子と中性子と陽子が云々。

 

肉体は合成物である。合成物は合成物たる限り他のあるものに変化する。変化するとはすなわち自己同一性をもたないということである。等しさそのもの〉〈美しさそのもの〉は自己同一性をもつ。自己同一性をもつものは目に見えないものである。それに対して自己同一性をもたないものは目に見えない。ところで魂は目に見えない。したがって魂は自己同一性をもつ、ゆえに永遠不滅である。

 

(ここでシミアスやケベスからの突っ込みがないので私が突っ込むが、目に見えない合成物が存在するという可能性は、バークリーのような知覚一元論の立場を取らない限り、ここでは否定しきれないだろう。目に見えるものが自己同一性をもたないからといって、目に見えないものが即自己同一性をもつとは言えない。)

 

(シミアスとケベスによるソクラテスへの反論はここでは省略する。)

 

d.イデア論による証明

 

冷たいものが熱くもあるということはあり得ない。偶数であるものが奇数であるということもあり得ない。雪に対しては熱のイデアは決して近づかない。三に対しては偶数のイデアは決して近づかない。

 

ここで、魂はその本性上肉体を動かすものである。なぜなら、肉体から魂がなくなると肉体は動かなくなるからである。魂は肉体に生を与えるものである、つまり魂は生の原理である。生の反対は死である。ゆえに魂は死を受け入れない。したがって、魂は不死なるものであり、不滅である。

 

ソクラテスは、霊魂不滅の証明を終えると、「その言い伝えとはこういうものだ」と、伝え聞いた神話によって死後の世界について語ろうとする。ソクラテスは、自らの語りうる範囲を超えるようなところは神話的な説明を用いようとする。この部分は、ひとりの信仰者としてのソクラテスが描かれており、『ソクラテスの弁明』とも重なる部分である。本書の内容は以上となる。

 

パイドン』は霊魂不滅の証明の対話篇である。dの証明は論理学にも用いられている矛盾律(AはAであり、Aが非Aであるということはありえない)に基づいている。これを突き崩すには、アリストテレス『霊魂論』を引きつつ、〈魂〉の概念を再検討することが求められるであろう。

 

次回は『饗宴』。