有機体

哲学徒二年生

2016.12.31 世界分岐

「被抑圧者の伝統は、ぼくらがその中に生きている『非常事態』が、非常ならぬ通常の状態であることを教える。ぼくらはこれに応じた歴史概念を形成せねばならない。このばあい、真の非常事態を招き寄せることが、ぼくらの目前の課題となる。…」

(ベンヤミン『歴史哲学テーゼ』Ⅷ)

非常事態とは何か。われわれは危機的状況に直面して初めてそれを異常だと言う。しかし、危機はいつどの時にもつねに訪れていた。異常さは今に始まったことではない。非常事態は、実は「非常ならぬ通常の状態」なのである。

今年がいかなる年であったと言えるだろうか。社会的にはわれわれのそれまでの価値観を揺さぶるような事件がいくつか起こった。そこに直面して何を思えばいいのだろう。

歴史は安穏な連続ではない。時代の暴力によってかき消されてきた者たち、かれらの多くのことばは遺っていない。ヴァルター・ベンヤミンも時代の暴力の只中に消えた1人であった。

歴史の教科書は、大概国家や王朝と権力者の歴史である。本来の経過された時間、死者を含むすべての人々の生きた時間としての歴史は、勝者たちの栄光の歴史に限らない。その下に歴史の表舞台に登場しなかった無数の「死者」たちがいた。

なんだか説教臭い話になってしまった。私は徒らに危機感を煽りたいのではない。私を含め、皆時代に何かしら違和感を抱くことがあると思う。その違和感を感じたときにそれを逃さず捕らえることが重要なのだと思う。なぜ重要なのだと思うのかはよくわからないが。

私にとって今年は何かしら人生の岐路であったと思う。何の分岐点なのかはよくわからないが。「今思えばあのときにやっておけばよかった」「今思えばあのときのこういうことが今に効いている」というように、未来が現在にならないとわからない。

但し、この人生の岐路というのはいたるところに用意されているのかもしれない。人生は、一直線に進む均質で空虚な時間ではない。すなわち、歴史の教科書の年表を追うように進行する時間ではない。少し立ち止まって周りを見渡してみると、抜け道が見つかるのだと思う。そこに逃れて、ようやく現在の時代を俯瞰できるのかもしれない。でもその抜け道は、誰にも気づかれずに閉じられてしまうのかもしれない。

今は今を異常だとは思えなくても、時代が過ぎて「今思えばあのときはひどい時代だった」、逆に「今思えばあのときは素晴らしい時代だった」と思われるようになるのかもしれない。しかし、その歴史語りが未来における過去たる現在をありのまま説明するわけではない。歴史語りはその時その状況に条件づけられている。

未来においてわれわれはいかにして語られるのだろうか。時代の「勝者」であったか「敗者」であったか。われわれは何者であるのか、われわれは何を為すべきか。結局わからないのかもしれないが、少し立ち止まって問う必要があると思われてならない。

さて、今年ももうすぐで終わる。来年はまずプラトンの読解を終えなければ…。

ブログの閲覧ありがとうございます。来年も引き続きよろしくお願いします。

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